穏健派と過激派の間
2025-04-25


いや、こんなすごいタイトルをつけて、
大上段に構えて、政治運動を分析しようと言うのではない。

羊頭狗肉は承知の上なので、ご勘弁を。

ある古い知人が、あるMLに書き込んでいる文章を読んで、
ふと思ったのだ。
この人が言うことは、私は思想的にはすべて賛同できる。
昔もそうだった。
この人は、至極真っ当な意見を持っていて、
考え方としては、全面賛成だった。
この人の考え方は、過激と呼ばれるものかもしれないが、
実は、究極はこの人の主張が正しいと思っている。

しかし、方法論となると、途端に、賛同できなくなる。
当時、所属していた組織の多くの人が、この人の思想と同じだった。
みな、全部わかっている。
しかし、物事は一歩ずつしか進まない。
いや、人権侵害などの事象について、
法の改善、世の中のマジョリティの理解を得ることを抜きに、
社会は変わらない。
もちろん、世の中を変えるために、
今の政治家を滅ぼして、新しい政権を樹立するような「革命」を起こす、という手はあるだろう。
歴史は、これらの繰り返しだった。
暴力革命を目指す人たちには、
「穏健派」の動き方は、欺瞞に見えたり、怠惰に見えたりするのだろう。

しかし、暴力革命を肯定しないならば、
法の改善を目指し、
世の中のマジョリティに働きかける地道な動き方しかできない。

もちろん、今の法体制だって、元を正せば暴力的に築かれたものだ。
今の日本の民主主義は、敗戦によってもたらされた。
今の日本の「男女平等」憲法は、連合軍が強制したからだ。

が、せっかく、獲得した平等と平和を、
すべての人の人権を保障する法の精神を否定する理由はない。
何によってもたらされたか、ではなく、
何を得たか、ということの方が重要だと私は思っている。
その法の精神では、暴力革命は当然、容認されない。

しかし、今もまだ、過激な思想を語るその人は、
いきなりの良き効果を求めて発言を続ける。
が、政府の転覆は不可能だから、
嘗て、弱小の組織を潰して満足していた(のか?)。
民主的な手法を駆使して組織の存在意義を死守しようとしたメンバーは、泣きながら、組織を解体した。
ま、「解体」ではなく、「休会」という結論にしたのだけど。
しかし、永遠の休会だ。
その人の意見に賛同はできたけど、
辛抱強く議論を続けていく、という方法を取らずに、
組織を休会に追い込んだその人に、私はもはや寄り添う気持ちにはなれなかった。
総会の場で「休会」が決まり、メンバーが三々五々会場を去る頃、
その人は、私に向かって、
「M吉さん、これからもよろしく」とにこやかに言った。
が、私にはそれに応えることは無理だった。
それぞれのメンバーが、悔しい思いをかかえ、
同じ考え方の人とどこかに流れるのだろう、ということが予測されたが、
私は一人、会場を離れた。
もう一人、会場を離れた若い人がいて、一緒に、ため息をつきながら帰路に向かった。

その人は、なぜ、自制できないのか。
民主的な手法は、まだるっこしい。
自分とは反対の人の意見を聴く忍耐が要る。
その反対派の意見をも吟味し、その言い分に合理性を見いだしたなら、自分の考え方を検証し、落とし所を探す作業が要る。
それに耐えられない人は、
「穏健派」の態度を理解できないのだろう。

時には後戻りする。
時には立ち往生する。
それでも、誰をも潰さずに、
共に生き残りながら、良き方向性を模索し続ける、
それしかないのではないか。

私の狭い体験では、
「過激派」と「穏健派」の目指すゴールは違わない。
ただ、方法論があまりにも違う。
時には諦め、時には自棄的になり、
時には安堵し、ということを繰り返しながら、

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