2024-01-26
自分の思考の癖、行動の癖というものはなかなかわからない。
年を取って、あれこれ、振り返って、
自分の癖に「あれ?」と気づくことがある。
若い時は、周りへの対応だけで余裕がなく、
自分を振り返ると言っても、振り返り方が中途半端だった。
だから、どうしても、自分の癖に思い至らない。
正当なふるまいをしているのに、なぜ、周りはあんなにおかしな反応をするのだろう、と思ってしまう。
が、自分のその正当性すら、「癖」のうちなのだろう。
自分のものの考え方を軸にしてしか、他人の反応の理由も推し量れないので、
自分とは異なるものの考え方をする人は、
意地悪に見えたり、私を嫌っているように見えたり、
正当性を欠くふるまいを自分に対してしてくる相手のように見える。
距離が近かったり、自分だけが向き合わねばならない相手だと、余計そうなる。
相手のふるまいが、とにかく理不尽なのだ。
特に、そのことで自分が負担を強いられる事態になると、相手を非難する気持ちがわく。
実は、その、「負担を強いられる」事態も、自分の癖のせいで、「負担」となっている可能性がある。
自分なら、このようにふるまう、と思っていることを、
他の人が違うようにふるまうと、「?」が浮かぶ。
私は、人慣れしていないので、そこを人とすり合わせて、修正をかける、ということがなかなかできない。
修正をかけないまま、他の人とつるむことをせずにいると、
他人の「習性」や「癖」を理解しないまま、
結局、孤独な気分で生き続ける。
そういうことなのだろう。
人とはできるだけよくつるんで、すり合わせをしないと、
厳しい人生のままだ。
極端になると、孤独な人の中には、
自死を選ぶ人も出てくるし、
他人への恨みを募らせて、はた迷惑な事件を起こす人も出て来る。
人とつるみ、人にもまれ、
人がどういうものかを知る必要がある。
それができないと、人と交流することが難しい。
人生は寂しく、悲しいままだ。
いっそ、山の中の一軒家で隠遁生活をするならいいが、
都市生活を送るなら、自己修正は必須だろう。
自己修正の契機は、
人と交流し、人になじみ、人の「言語」や「癖」を理解することだ。
他国から来た人なら、その人の「言語」や「習慣」などを理解しようと努力するが、同じ日本語を話す相手だと、同じはずだと思い込んでいる。
そこを軌道修正するのは、
実は、人慣れしている人たちが無意識にやれていることだが、
私のようなものは、意識的にやらねばならない、ということだ。
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