2020-11-24
コロナ禍で、オンライン授業を続けている。
ZOOMで講義を録画し、それを大学のシステムで配信する。
毎週、それをやっている。
学生の顔は見えない。
ライブ配信は、学生のネット環境などが揃わないと難しいのだろう。
だから、授業録画は、8日間、アクセス可能になっている。
大学によってやり方は少しずつ違うようだが、
オンライン授業の苦労はだいたい同じみたい。
で、ひきこもり度が増した。
つくづく思う。
私は引きこもり体質の人間だが、外に出たがりの人間でもある。
引きこもるのは、人との関係がしんどいからだ。
人に言われることに傷ついたり、取られる態度に傷ついたり、
子どもの頃から苦労をしてきた。
基本的に、積極的に絡んでくる人が苦手だ。
そういう人に対して、待機状態でいることは無理で、
つい引き気味になる。
じゃあ、人が嫌いなのかと言うと、そうではない。
実は、誰にもかまってもらえないと、ものすごく寂しくなって、
死にそうになる。
しかし、かまってくる人は誰でも歓迎とはいかない。
つまり、自分の望むようなかまい方で、かまってほしいのだ。
で、やはり、思い出すのは母。
私はやっぱり、母と同じ。
寝たきりになった母を見て、そう思った。
母は、私に傍にいてほしい。
その理由はわかる。
口うるさく言わない。
母の意向を汲むように、努力している。
頼めば何でもしてくれる。
でも、望んでいないことでかまってこない。
ものすごく、都合の良い娘だったはずだ。
ケアマネさんに、「わりにええ子に育ちましてん」と言っているのを聞いた。
そうだろうな、邪魔にならないで、やってほしいことは何でも頼める存在だものな。
私は、自分が扱われたいように、母を扱っていたのだろう。
母を寂しくしないように努力していた。
母がうるさく感じるような出しゃばり方はしない。
母のプライバシーは覗かない。
でも、望みはかなえようと思う。
よくできた娘ではないか(笑)
で、私もそのように扱われたいのだろう。
もちろん、母とは違って、自分の子どもにそれを期待するわけではない。
子ども世代は、親をかかえているだけで、負担だろう。
子どもは親のために存在すると思い込んでいた母たちの世代とは違う。
自分を幸せにするために私が生まれてきた、と思い込んでいた私の親などは、論外だ。
ただ、適度な距離と適度な親しみと適度な優しさを望むのは、母と同じだ。
ただ、それを近親者ではなく、赤の他人に望んでいるところが母とは異なる。
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