戦後の民主主義
2020-08-11


私は戦後の生まれだから、高度経済成長の申し子のような世代の人間だ。

家庭環境もあるのだろうが、使い捨てが推奨され、常に新品を購入することが良いことのような空気があって、
特に母がそうだったせいか、
私は、いつも新しい物を持っていた。
未だに、中古は苦手だ。
他人の使った物をもらい受けるなど、とんでもない、という感じだ。

子どもの頃、社会には、民主主義の到来を、まだ喜んでいるような空気が漂っていた。
小学校、中学校ではしつけが中心で、「ちゃんとしないといけない」という空気があったが、
高校に入った時、その自由な空気にめまいがしそうだった。
当時の京都は蜷川府政。おそらく、その革新の息吹が教員たちにも共有されていたのだろう。
自由と平等を享受し、それを生徒にも伝えようとする教員たちの明るい表情が、私にも希望を与えるものだった。

カリキュラムは基本的に個人単位。
もちろん、学年制なので、学年をまたぐことはできなかったが、
いくつかの選択科目から自分で選び、自分で履修科目を構成する。
全く同じカリキュラムの人は、クラスに一人もいなかった。
ホームルームの机は一応指定されているが、
そこに物は入れない。
ほぼ、毎時間、カバンを持って、受講する教室に移動するからだ。
休憩時間は、常に、移動する生徒が流れている。
親しい友人に会うと、
「次、何の科目受けるの?」という会話がしょっちゅう交わされる。

朝、登校すると、必ず掲示板を見る。
休講通知が出ているので、休講を確認したときは、「さて、何をしようか、どこに行こうか」ということになる。
午後の休講だと、帰宅する生徒も多い。
私も帰宅組だった。
1時間目が休講だとわかっている日は、登校も遅い。

科目によっては、席が決まっていないので、座る場所も自由。
好きな科目だったりすると、かぶりつきに座る。

「この科目が、入試に関係のない人は、後ろの席で内職してよろしい」と言うような先生もいた。

制服の指定はあったが、
制服廃止キャンペーンを張っていた生徒会の役員たちによると、
「制服ではなくて、標準服だから、着ることは強制されていない」とのことだった。
それでも、制服を着せようとする統制型の体育の教員などがいて、
生徒との攻防が盛んだった。
が、体育の教員もさまざまで、
「鬼の××、仏の〇〇」と称されている二人の男子体育の教員がいた。
実際、「仏の〇〇」がホームルームの担任になったとき、
その穏やかさに感嘆した。
こういう大人になりたい、と切に思った。

男子は詰襟の学生服だったが、全員が着ているわけではなく、
ダークな色のセーターやカーディガンをいつも着用している生徒もいた。
あるホームルームで制服談議になったとき、一人の女子が、
「詰襟の制服を着ている男子は素敵に見える」と発言したら、
カーディガン派の生徒が、
「俺、明日から制服着よっ」と言って笑わせていた。
ある男子学生は、詰襟の下に派手なオレンジ色のセーターを着ていて、どこにいても目立っていた。
暑かったのか、たまたま教室で制服を脱いだとき、
一瞬言葉を失った教員は、
「派手な色やなぁ。目がちかちかするわ」と苦笑していた。
女子は、基本的に制服の上着(これは実は気に入っていた)の下に着用するブラウスの規定がなく、(たぶん、白とは書かれていたのだと思う)、
私もフリルやレースのついたブラウスを着ていて、女子のブラウスはどの人もなかなか華やかだった。

靴について、戦後すぐに作られた校則だったのか、
「赤い靴はいけない」とのみ書かれていた。
だから、私たちの世代は、「赤い靴でなければいいんだ」と解釈し、私も冬は、白いブーツをはいていた。

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